美味しいお口(ザクカイ)

「…忍、霧……」
「分かったから悲しそうな表情をするな、鬼ヶ崎!」
呆然とこちらを見るカイコクに、ザクロは声を上げる。
事の起こりは30分ほど前。
今日が刺し身の日だというのをどこからか聞いてきたカイコクが、嬉しそうに食堂に来た。
刺し身の日ならば刺し身を食べなければ、と普段の笑みとは違い、純粋ににこにこと微笑む彼に、そんな顔も出来るのだなぁと思った…刹那。
新鮮な生魚はない、とオーダーを突き返されたのだ。
あるのは良くスーパーなどで見る、【おつとめ品】とやらで、箱入りのカイコクは存在を知らなかったらしい。
無理を言って出してもらったものの、「…味がちげぇ…」と落ち込んでいる、というわけなのだ。
晩御飯には新たに運んでくるので間に合うらしいが、思っていた刺し身と違っていたことがショックだったらしい。
そんな落ち込まなくても、と言っても普段からは想像も付かぬほど凹んでいた。
「分かった。…なら、アレンジしてやる。昼はそれで我慢しろ」
「…へ?」
悲しそうな表情から、不思議そうなそれになる。
「刺し身ではないが。それでいいか?」
「…美味くなんのかい?」
「俺は良く家で食べていた」
カイコクが食べていたマグロの刺し身を持ってキッチンに向かった。
自由に使っても良いという冷蔵庫の中身を漁り、あるものを取り出す。
「…それは?」
「山芋だ。これを擦って醤油と共にマグロと合わせる。…ご飯の上にかけ、生卵を落として食べるというのが一時期俺の家で流行ってだな」
そう言いながら、山芋の皮を剥き摩り下ろした。
痒いのは一瞬で、それよりもマグロの赤が山芋の白に隠れるのが面白い。
小さくなった山芋は擦り切らず、刻んでボウルに入れた。
一緒に大葉を刻み、醤油を入れて混ぜる。
「ほら、出来た」
「…こんなので、本当に…?」
「いいから食べてみろ」
疑う彼にずい、とそれを近付けた。
しげしげと見つめ、口へと運ぶ。
「…!…美味い」
「…良かった」
驚きに目を見開き、へにゃりと笑った。
それにほっとして器に移し直してやり、卵を取り出して席に戻る。
「これを?ご飯の上に?」
「そうだ」
ほかほかと湯気が立つご飯の上にそれを乗せ、カイコクは綺麗な箸さばきで口に運んだ。
先程の悲しそうな表情はどこへやら、幸せそうに食べる彼に、やれやれ、と思う。
「卵落としても美味えな」
「それは良かった」
年相応に笑うカイコクにそう言って自分の食事を再開した。
珍しく口端にご飯粒を付けながら頬張る彼に小さく笑う。
美味しい口になっているな、と手を伸ばすまで…後5秒。


「…なあ、なんか口周りが痒いんだが…」
「山芋とはそういうものだ。…あまり擦るな、赤くなる」
「そう言ってもだな…んっ」
「なら、治してやる」
「へっ、ちょ、ま、忍霧…?!ん、ぁ、ま…っ!」
カイコクが念願の刺し身定食を食べられる夕方まで、山芋で痒くなった【美味しい口】を、さんざ舐められるまで……後、30分、だ。

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