逃避行しほはる

遥が何やら真剣な目でスマホを見つめていた。
ふと通りかかっただけの志歩は、邪魔をしては悪いなと声をかけないつもりだったのだが…何を見ているか気になり、それをそっと覗き込む。
「…お姉ちゃんの動画?」
「…ひゃっ?!日野森さん!」
思わず呟いてしまった志歩に、遥が驚きの声を上げた。
それにこちらも驚いてしまい、反射的に謝る。
「ごめん!驚かせる気はなくて…」
「ううん、こっちこそごめん」
にこりと笑った遥はもういつもの通りだ。
それにホッとしつつ、改めて彼女のスマホを見る。
「…えと、お姉ちゃんが見えたから、つい」
「ああ、これ?そうなの。最近撮ったんだけど、いつもとは違う雰囲気でしょう?」
志歩の言葉に、遥は嬉しそうに言った。
ほら、と見せてくれるから志歩は遠慮なく隣に座る。
小さな画面の中では雫と、それから愛莉が踊っていた。
珍しい、と思ったのは彼女たちが踊っていたのが所謂アイドルソング、ではなく、初音ミクが奏でる歌は悲愛めいた物語調のそれだったからである。
二人ともドレスを着て優雅に踊っており、手を差し出す愛莉とその手を取らずそっと目を伏せる雫は引き込まれるものがあった。
あんなに家ではおっとりしているのに、やはりプロなのだなぁと思う。
「良いね、この雰囲気も好きだな」
「でしょう!曲も好きなんだ。随分後になって続編も出たけど、あれも良いよね」
「ああ、私も好き。歌詞は物語調だけど使ってるのは割とギターとかベースとかそっち方面だし…」
「そういえば、珍しいよね。でもそれが合ってるっていうか」
「うん、バンドサウンドだから良いのかも。私も良く聴いてベースを真似したことあるよ」
「本当?!聴いてみたいな」
遥は楽しげに聞いてくれるからつい話し込んでしまった。
そういえば、ぬいぐるみの価値観もそうだったし、考え方が似ているのかもしれない。
「桐谷さん」
「?なぁに、日野森さん」
「桐谷さんは、この歌詞どう思う?」
「どうって…素敵だとは思うけど…」
唐突なそれに遥は首を傾げた。
どうしたんだろう、という表情が見て取れて志歩は思わず笑う。
「そうじゃなくて、共感出来るかってこと」
その言葉に遥は、ああそういう、と笑ってから少し上を向いた。
「うーん、曲は素敵だけど、歌詞に共感は出来ないかなぁ。両親とも仲は良いし、別に逃げる必要もないし。自分のことも嫌いではないしね…。…あ、でも」
「?でも?」
「逃避行はちょっと気になるかも」
思いもよらない言葉に志歩は驚いた。
まさか逃避行に興味があるなんて。
「駆け落ちっていうのかな。自分が持ってる全てを捨てて恋人と二人で生きるってどんな感じなんだろうって」
全てを捨てる気はないけどね、なんて笑う遥に志歩は目を細める。
彼女はきっとこれからも全てを、夢を捨てる気はない。
それは志歩も同じ、だから。
「…なら、やってみる?」
「…え?」
きょとんとする遥の手を取った。
彼女のスマホから歌が流れる。
『…♪連れ出してよ、私の   叱られるほど遠くへ…』
「私も興味あるんだ、逃避行」


「日野森さん!」
「…桐谷さん。…どうしたの、その荷物」
手を振る彼女はなぜだかスポーツバッグを持っていて、志歩は首を傾げる。
「ああこれ?帰りにちょっとランニングしていこうと思って」
ニコニコと遥が笑む。
彼女の今の格好は白いワンピースに水色の短いボレロだ。
どうやら逃避行感を演出したらしいが、これはランニングには向かない。
だからこそランニングウェアやシューズをバッグに詰めてきたのだろう。
「ああ、なるほど。桐谷さんが重くないなら良いけど」
「大丈夫だよ。日野森さんのは、もしかして…」
「…正解は後でね。じゃ、行こっか」
目を輝かせる遥にそう躱して志歩は促した。
時刻は午前4時を少し過ぎたところ。
まだ電車も走っていない。
終電で行っても良かったが、真っ暗闇を歩いて帰るのはごっこ遊びにしては危険だと、歩いて行って始発で帰ることにしたのだ。
どうせ今日は休みである。
線路脇を二人でただひたすら歩いた。
「そういえば、雫は何も言わなかったの?」
「言ったら心配するし、何も言わずに来た。…帰ったら早朝練習してたとでも言うよ」
「そっか。…嘘ではないものね?」
「まあね。桐谷さんは?ご両親心配しない?」
「私のところは…。…トレーニングで走りに行くのは知ってるし…」
話しながらまだ薄暗い街を歩く。
夜風とはまた違ったそれが心地よかった。
「…!日野森さん、見て、海!」
パッと遥の声にそちらを向く。
さっきまで広がっていた街並みからは考えられないほど、綺麗な景色が広がっていた。
時計を見れば6時に近づきそうな時間で、そりゃあ景色も変わるな、と志歩は苦笑する。
それでも疲れた、とは思わないのは遥と共にいるからだろうか。
「行ってみよう」
「ええ」
線路を逸れて浜辺に向かう。
丁度昇ってきた朝日がきらきらと飛沫に反射していて、志歩は目を細めた。
「ふふ、もう帰れないね?」
「…楽しそうだね、桐谷さん」
いつの間にそんなところまで行っていたのか、足に水をつけ、長いスカートをたくし上げる遥に志歩は思わず笑う。
すると彼女も恥ずかしそうに目を伏せた。
「ちょっとやってみたかったんだ。早朝の海ってなかなか触れること出来ないし」
「あれ、強化合宿は海でやったんじゃなかったの?」
首を傾げる志歩に、ああ、と遥は説明してくれる。
「起きてはいたけど、流石にこんな事は出来ないよ。…そういえば、日野森さんたちも合宿やったんだよね?」
「まあね。合宿っていうか、練習場を貸し切って特訓しただけだけど」
「それも凄いよ。…またライブ見に行きたいな」
「ありがとう。次ある時は教えるから時間あったら来てよ。待ってる」
「…もちろん!」
遥が凄く嬉しそうに頷いた。
本当に楽しみにしてくれてるんだろうな、と思う。
彼女の言葉に嘘はないと分かるから。
「…?日野森さん?」
きょとりと遥が振り向く。
夜から朝に変わった、緩やかな海風に吹かれた、彼女の髪が揺れた。
「…ううん、私もあの歌は好きだけど、歌詞の共感は出来ないなぁって」
その言葉に遥がコロコロと笑う。
傍のテトラポッドに座り、ベースを取り出した。
音を紡ぐ志歩に合わせ、彼女が歌を奏でる。
そういえば、遥と仲良くなったのも臨海学校の時だったか。
お互い挨拶を交わすだけだったのに、フェニーくんの話をしたり、誕生日を祝い合ったり、チョコレートファクトリーに行ったり。
遥に接していく内にもっと知りたいと思うようになった。
しっかりしている彼女の笑顔が可愛かったりだとか、志歩も驚くほど甘いものが好きだったりとか、クールに見えるのにとても熱かったりだとか。
「♪たぶん私あなたが 好き だった…」
綺麗な遥の声が海に溶ける。
ベーシストとアイドルの歌なんてかなり異色だろう。
けれど、今はそれが心地良くて。
遥も同じ気持ちなら良いな、と思った。

(自分のチームに戻る、その時までは


出来れば隣で歌っていて)


「ふふ、何だか楽しいな。あ、日野森さん、この曲知ってる?」
「…ああ、知ってる。…ちょっと待って…」


夜と朝の境目、時間限定の逃避行


二人の歌を乗せて、セカイに朝が来るー…

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